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平成の虚無僧一路の日記

虚無僧の取締りと解禁 

2012年10月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



虚無僧が「神君(家康公)のお墨付」と称してきた『慶長の御掟書』が
偽造とされ、虚無僧が断罪されたのは、江戸時代も末の末、1847年
(弘化四)年のことでした。これは明治維新の21年前です。

きっかけは、美濃(現岐阜県)の芥見村で、甲州乙黒の明暗寺と
浜松の普大寺の虚無僧による、縄張りをめぐっての闘争事件があり、
死者まで出たことからでした。その取調べの過程で、虚無僧寺本寺の
家宅捜査を行ったら、無宿人や遠島(おんとう=島流し)になったはずの者の
たまり場になっていて、女を囲い、飲む打つ買う三昧の乱れた風紀
だったことから、一斉に捕らえられ処罰されます。

明治政府が、明治4年に「普化宗」の廃絶と、尺八を吹いて托鉢行脚を
することも禁止したのは、この流れにあります。昭和25年まで、旧憲法の
下では、虚無僧はご法度だったのです。「信教の自由」で法律で
解禁されるのは昭和25年以降のことなのです。

よく「昔、子供の頃、虚無僧がまわってきた」「見ましたよ」と
いわれますが、虚無僧が晴れて、門付けできるようになったのは
昭和25年以降、そして昭和30年が ピークだったのです。

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