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平成の虚無僧一路の日記

「虚無僧掟書」も贋作 

2012年10月27日 外部ブログ記事
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江戸時代、虚無僧たちは「神君(家康公)のお墨付をいただいている」と
して、手前勝手な権限を振りかざします。この『慶長之御掟書』(けいちょうの
ごじょうしょ)は、1614年(慶長19年)に徳川家康によって普化宗に
与えられた掟書とされるものです。しかし、幕府には「控え」が無く、
江戸時代の後期になって、提出を求められると、「本物は火事で焼失した」
として、その写しというものを差し出すのですが、それが、何種類も
あるのです。


まず、冒頭に「御入国之砌(みぎり)、仰せ渡されし候 御掟書」とあって、
家康公が「関東に入封の際、仰せ渡された」というのですが、末尾に
その日付が「慶長十九年」となっていて、ここでもう ズッコケです。
「慶長十九年(1614年)」は「大阪冬の陣」で、家康が関東に入国したのは
「天正十八年(1590)年」でした。


第一条に「虚無僧之儀は勇者浪人一時之隠家」と、つまり、「失職した
浪人の一時の隠れ家」であって、再仕官するまでの仮の姿」と定義付け
しているのです。

第ニ条は、「虚無僧は武士に限り、一向宗の坊主、百姓、町人、
下賎の者を虚無僧にしてはならない」と定めています。

「一向宗」の僧侶だけ特定しているのが謎です。禅宗や日蓮宗なら
良いというのでしょうか。「一向(いっこう)宗」というのは“一向
=ひたすら”「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるというもので、広義
では、専修念仏の浄土真宗や時宗も含まれます。加賀や三河の一向
一揆や、石山本願寺(現大阪)、名古屋の南西、長島一揆など、信長、
秀吉、家康を悩ました宗教一揆の元凶ですから、為政者に敵対する
ものとのイメージがあります。虚無僧は、徳川によって滅ぼされた
豊臣方の残党ですから、特に「ご政道には歯向かいません」との
恭順の意を示したものかと思われます。

とはいえ、虚無僧は「家康公のお墨付」を振りかざして、布施を
強要するなど庶民にとって迷惑な存在でした。幕府も「家康公の
お墨付」が本物だったら大変と、これを黙認してきました。

それにしても「家康公のお墨付」を偽造するとは、したたかです。
ま、刀や書画骨董にしても、日本は昔から“贋作”黙認の風土
でした。中国人を責められませんね。

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