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平成の虚無僧一路の日記

鉄砲玉に当たったことが幸運となった 

2012年08月23日 外部ブログ記事
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会津藩士は 3,000家。そして3,000人が戦死しました。
全滅かと思ったら、戦後、下北に移住した者は
1万8千人にも のぼりました。ということは、
一世帯平均7人家族。各家で1人が戦死したと
いうことになります。

家老の西郷頼母は、戊辰戦争時38歳で、家族は、
母、妻、娘5人、男子2人の9人家族でした。
そして一族郎党21人が自害して果てたのです。

牧原家も「一郎 300石」と、その弟の「奇平150石」の
2家族で、それぞれに子供が数人ずつおりました。

戊辰戦争時、牧原姓の男は、系図で判るのは12人。
うち「一郎(67歳)」「奇平(62歳)」はじめ、8名が
戦死し、生き残ったのは4名です。そのうち、私の
直系の祖「源八郎」以外の3人の末裔は不明です。

私の直系の祖「牧原源八郎」は、会津戦争当時18歳で、
「奇平」に従って 戸の口原に出陣し、腹に鉄砲傷を
負って退却します。城はすでに敵軍に包囲されて
いて入れず、荒館村の「新田」という名主の家に
匿われます。

そこで、傷の手当をしているうちに、1ヶ月後
開城となり、そのまま「新田」家に留まります。
「新田」家では子供が無かったため、牧原姓の
まま新田家の家屋敷を相続したのでした。

ですから、翌 明治2年の斗南移住にも従わず、
そのまま会津に残ったのです。銃弾に当たった
ことが、逆に“幸運”を生んだのです。

「源八郎」の受けた鉄砲玉は、体内に残ったままで
晩年になって、ポロリと取れたとか。今も本家に
その「幸運の鉛玉」が家宝として伝わっています。

「源八郎」が 負傷しながら生き延びて、私が
この世にいるわけです。

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