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雑感日記

明石の想い出と明石公園 

2012年07月18日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



★ 私の本籍は『明石市上の丸二丁目720番地』である。
生まれた、場所も同じである。  明石公園の東の外堀、『薬研堀』に面していた。
明石公園は直ぐ目の前、庭のような存在で過ごした。
 
昨日は、兵庫県の夏の予選、母校明石と宝塚の試合があったので明石公園を訪ねた。2−1で明石は勝って、気分もよかったので、
2時間近く、明石公園を散策したのである。 いっぱい写真を撮ってきて、Facebook にアップした。
 
★それぞれの写真に、いっぱい想い出が詰まっている。
ただ、その写真の想い出を語っても、それを共有した人たちの半分以上はもうこの世にはいない。
現存する仲間たちも、その殆どはこんなブログやFacebook とは無関係に生きている。
考えてみると、非常に寂しいことである。でもそんな想い出をどこかに残しておきたいと思ったりもする。
そんなことなので、つまらぬ年寄りの感傷みたいなものにお付き合い頂けば、幸いである。
 
想い出はともかく、写真もなかなか綺麗で眺めも素晴らしい。
 

 これは桜の木なのである。 
 

 明石公園の特徴これは木の大きさが一つの特徴だろう。
それはこの公園の歴史を感じさせる。
お城なのだから当然江戸時代、その樹齢が何百年なのかもよく解らない。兎に角大きい木は珍しくない。
 
この明石公園、戦時中は明石市民の恰好の避難場所だった。
明石という町がアメリカ空軍の激しい空爆を受けたのは、川崎航空機があったからである。
明石市民は少なからずその影響を受けている。
 
勿論、西明石の川崎航空機も激しい爆撃を受けたもだが、そこから5キロも離れている明石のまちも爆撃にも焼夷弾攻撃にもさらされたのである。
安全と思われた明石公園も爆撃で殆どの木がその被害を受けた。
樹木より先に公園に避難した人が多数犠牲にあったのである。
 

 
沢山あった背の高い松の木は全滅したと言っていい。今そんな松は見られなくて、広葉樹の森に化している。
多分この木あたりが戦災の面影を残して いるのではないかと思う。
 

 
このお城の前あたりは、背の高い松林だったのだが、今はそんな面影はない。
ここが正面の芝生広場である。戦後初めての天皇行幸の際は、ここに明石市民が集まった。
天皇陛下はお城の上に立たれた。その場所がこちらである。
 
 
 
今、私は陛下が立たれた、その場所に立っている。
ちょっと東を向くと、
 

 
明石、淡路大橋も一望される。
 
 
 このブログの冒頭に
私の本籍は『明石市上の丸二丁目720番地』である。
生まれた、場所も同じである。  明石公園の東の外堀、『薬研堀』に面していた。
と書いた。
『上の丸2丁目720番地』 そんな番地は現存しないのである。
720番地は『薬研掘』から『自転車競技場』あたりまでの2、 3000坪ほどの一画を表していて当時はそんな広大な屋敷だったのである。
 
 
今はこんな状態になっている。 2,30軒の住宅が建っていて、それぞれ分筆された番地になっているのである。
『上の丸2町目720番地』はそう言う意味では、記念すべき私だけに与えられている番地なのである。
 
この薬研堀、戦時中の空襲のときは、公園に避難してきた人たちが爆風で飛ばされて、池が死体で埋まったと伯父はよく言っていた。
当時屋敷内にも爆弾が3発、焼夷弾はそれこそ数メートル間隔で地面に突き刺さっていた。
この立地は大丈夫と、神戸の知人などから疎開の荷物を預かっていたらしいが、全て焼失してしまったらしい。
この薬研堀、庭と繋がっていたので、ずっとフナ釣りなど庭先でやってた感じだったのである。
 

 
明石公園の想い出話、いっぱいあり過ぎて書ききれないが、
これが剛ノ池である。
公園最大の池なのだが、この池を見るたびに思うのは、『ここの鯉は一体どれくらいの大きさになっているのだろうか?』 と思うのである。
 
この池の水を抜いて魚を採ったなどは聞いたことはナイ。
ただ昭和16年ごろ1回だけ水を抜いて魚を採ったことがある。戦時の食料にしたらしい。
その時、色鯉は流石に食料にはと、当時いろいろと顔の効いた伯父がそんな鯉を貰い受けてきて、庭のプールにいっぱいいたのである。その時でもビックリするほど大きかったのが、うじゃうじゃいたのである。
夏休みに朝鮮から戻ってきて、ある日セミをやったら一発で食うので、沢山とってきてどんどんやったら翌日大きな鯉が沢山死んで伯父にこっぴどく怒られたのを思い出す。
あんなに大きいのがいたのだから、剛ノ池にはビックリするようなのがいるに違いないと思うのである。
 
小学生のころの生活は、伯父に子どもがいなかったものだから、跡取りとしてめちゃ可愛がってくれた。庭に池もあったが私のためにプールなど作ってくれたのである。
そんな生活も、終戦で一転した。朝鮮で南鮮電力の経営をやってた伯父は全てを失ってしまったし、
土地だけは残っていたが、家は焼けてしまっていたし、農地は小作に全部譲ってしまった。
そのうえ父が2年ほど病気で寝たものだから、それに打つマイシンなどを、土地を売りながらの生活になったのである。
 
★41枚の写真には、それぞれに想いがある。
Facebookの写真には、1枚1枚説明をつけてみた。

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