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平成の虚無僧一路の日記

南朝と虚無僧 

2010年06月20日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「幕府の隠密だった」と断定している記述もあるが、
その事実は無い。
それは、吉川英治の『鳴門秘帖』の影響だろうが、
隠密行動をするには、あの格好は目立ち過ぎである。

「隠密イメージ」は、「虚無僧が南朝と関わりが深い」
かのように 捉えられてきたからでもある。

そもそも「虚無僧」とは、「南朝の忠臣、楠木正成の子
正勝が『虚無』と名乗って、諸国を流浪し、南朝の再興を
働きかけたから」という伝説が流布している。

これは『虚鐸(キョタク)伝記国字解』に書かれているのだが、
『虚鐸伝記国字解』は、虚無僧の由緒を正しくするために、
江戸時代の半ばに書かれたもので、その内容は創作話
であり、信ずるに足らない。

しかし「虚無僧が南朝と関わりが深い」というイメージは、
この『虚鐸伝記国字解』の作者も持っていたと云える。

『虚鐸』とは、虚無僧が宗祖と仰ぐ普化禅師の鐸(=鈴)
の音を尺八で奏でるので、尺八のことを虚鐸(キョタク)という
のだが、それを日本に伝えた日本開祖を『虚鐸伝記』では
紀州由良の興国寺とした。興国寺側にはそのような記録は
無く、迷惑しているのだが、興国寺は南朝側の寺として
知られていた。虚無僧と南朝との結びつきは「興国寺」との
縁から作られた虚像だ。

さらに南朝との関わりは「一休」である。一休の父は北朝の
後小松天皇。母は楠木正成の血を引く人であったため、
一休は南朝の残党からも天皇に担ぎ出されかねない存在
だった。それで、一休は安国寺に預けられ、足利幕府の
監視下に置かれていたのだ。一休が晩年頼った大阪の
住吉大社は、後醍醐天皇の子、後村上天皇の行在所
だった。

虚無僧と南朝との関わりは、案外「一休」の影響では
なかったかと、私は考えている。


『「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。

「一休と虚無僧」で別にブログを開いています。

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