メニュー

最新の記事

一覧を見る>>

テーマ

カレンダー

月別

平成の虚無僧一路の日記

虚無僧の前身は「薦僧」? 

2012年03月27日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し



「虚無僧」は、いつ頃から使われるようになったのか。
室町時代、山口を支配していた「大内氏」の法令集
『大内氏壁紙』が初見だという。(そう、パソコンや
ケータイの最初の画面を「壁紙」と云うらしいが、
その初見は室町時代なのだ)

『大内氏壁書』の原本は、山口県下関市の「市立長府博物館」
に在る。それを活字化した『岩崎俊彦著 大内氏壁書を読む』
(大内文化探訪会)が刊行された。

それには、「虚無僧(こむそう)」ではなく「薦僧(こもそう)」と
書かれていた。

「文明18年(1486)4月20日付禁制」

  『第90条 薦僧(こもそう)放下、猿引の事』として
      一、薦僧、放下、猿引事、可払当所并近里事

薦僧(こもそう)は尺八を吹いて放浪していたから、曲芸師の
放下僧(ほうげ)や猿回しと同様の旅芸人として扱われ、
「当所(山口の城下)並びに近在の里でも払うべきこと」。
つまり=追い払えと云っている。

文明18年(1486)とは、足利義政の世、銀閣寺が建てられた頃。
一休は文明13年(1481) 88歳で歿している。その5年後の事。

「薦僧」は西国山口まで往来し、不審者として追い払われる
存在だった。「薦僧」が一般名詞になっていることは、
全国的にもかなりの薦僧がいたと考えられる。

>>元の記事・続きはこちら(外部のサイトに移動します)





この記事はナビトモではコメントを受け付けておりません

PR







掲載されている画像

    もっと見る

上部へ