あの寅さんは実在する!?心温まる人生の物語『男はつらいよ』
掲載日:2022年01月24日

あの寅さんは実在する!?心温まる人生の物語『男はつらいよ』

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江戸川の土手に立ち、故郷・葛飾柴又を眺めて胸の奥をポッポと火照らせながら、寅さんは語ります。背景に映るのは生命力溢れる1969年の柴又帝釈天門前参道商店街の風景。そのモノクロの画面を見つめているとタイトルがおもむろに表示され、あの主題歌が流れます。このプロローグだけで胸の奥がポッポと火照り、寅さんじゃありませんが泣きそうになります。

観るたびに違う箇所で心が揺さぶられる『男はつらいよ』。50年で50作品が公開されましたが、その第一作について少し書かせていただこうと思います。
  

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あの寅さんは実在する!?心温まる人生の物語『男はつらいよ』

寅さんは誤差のないデジタルな世界にこそ好まれる?

どのくらいの世代までが寅さんの帰る柴又の風景に郷愁を感じるのか分かりませんが、“昭和”はレトロでノスタルジーを感じさせるとしてブームなのだそう。誤差のないデジタルな世界に生まれてきたZ世代(1996年から2010年頃に誕生した人々)にとって、昭和の“不完全さ”は心地いいのだそうです。

精密機械や医療などは精密かつ完全であるほど安心なのに、生活全般においては不完全なほうが心地いいなんて、人間とは本当に不思議な生き物です。1969年に公開された『男はつらいよ』は、そうやって世の中を席巻していくデジタルという新興技術と人情の間で生きることを運命づけられた人々のための映画だったのかなと思います。そういえば寅さんの妹のさくら(倍賞千恵子)は電子関係の会社に勤務していましたね。

寅さんが痛みを共有してくれる理由は?

20年ぶりに故郷・葛飾柴又の地を踏む寅次郎(渥美清)。寅次郎が家を飛び出したのはたぶん1949年。当時はまだ戦争の傷痕は色濃く残っていたのではないでしょうか? 寅さん像のベースのような人物について、山田洋次監督はこんなふうに記しています。

敗戦後の大変な時代が思春期と重なった山田監督は、お兄さんとともに闇屋をやって学費を稼いだことがあったそうです。満員の貨車の連結器につかまり、寒風に吹かれながら長い時間をかけて、山口県の瀬戸内海側から日本海側まで干物を仕入れに行っていたという山田兄弟。

その買い出しのグループの中に、必死な形相で耐える人々をからかうハルさんという人物がいました。普通ならムッとしてしまいそうなからかいの言葉も、彼が言うとみんなドッと湧き、その笑い声で少し元気が出て、改めて手足を踏ん張らせることができたそうです。「私には寅さんの姿の向こうに常にあの闇屋の時代のハルさんがオーバーラップされているように思えてならない」(「映画館がはねて」講談社)と山田監督は書いています。

14歳で家を飛び出した寅さんは、教養を得る機会などないまま、大人に混ざって生きるために働き、それでも仁義の切り方を体得し、テキヤとして年を重ねてきたのでしょう。きっとその過程で寅さんにもハルさんのような存在があり、意識するともなく自分もそんな人物になっていった。そう山田監督は設定されたのではないでしょうか。

そんなふうに人々を奮起させる笑いを作り出す人間は、「人々と共に苦しい旅を経験していなければならないだろう」(同上)という山田監督の言葉も納得です。高みの見物をしている人にからかわれたら嫌味なだけですものね。

なぜ『男はつらいよ』は議論と共感を呼んだのか?

公開当時の「キネマ旬報」誌上では『男はつらいよ』をめぐって、映画芸術論や政治論とともにこの作品を語ろうとする人と、自分たちの物語として捉えた人で二分していました。反体制を謳うニューシネマが台頭してきた時代。当然の議論だったのかもしれませんが、私は『男はつらいよ』を「自分たちの物語だ」と受け止めた人々の気持ちに共感しました。

公開されたのは、戦後24年が経った1969年、東京オリンピックの5年後。生きることに必死だった生活に余裕ができ、さまざまなものがきれいに整えられた反面、人々の本音が新時代の“常識”というオブラートに包まれて見えづらくなった。そんなふうに感じ、時代からはじき出されたと思う人も多かったようです。ニューシネマはそんな気運が生まれた作品群ですが、『男はつらいよ』も同じ。居場所を失ったと感じた人々の拠りどころになったのかなと思いました。

それを証明するひとつとして、2作目の『続 男はつらいよ』(1969)の深夜興行の成功があります。当時、深夜興行は“不良性感度”の強い東映作品の十八番。松竹作品での深夜興行はありませんでした。でも寅さんは深夜でなければ映画を観ることのできない人々にも広く支持された。アウトローだと感じる人のための人情喜劇でもあったというわけです。

「キネマ旬報」誌に寄せられた読者のおたよりにこんなものがありました。通りすがりの青年が山田監督に気づき、「よくぞ『男はつらいよ』を作ってくれた」と感謝を伝えると、監督が「ありがたいですね。勇気づけられました」と返したという記事に、「この観客と監督の関係性こそが『山田喜劇を支える基盤』であり、同じように感謝したいと思った方は大勢いるだろう」という内容。この投稿が全てを物語っているように思います。ちなみにこれは当時の常連で後年「ヨコハマ映画祭」を立ち上げた鈴村たけし氏の若き日の投稿でした。

1本の作品の中で、時に手足を打ち鳴らして爆笑し、時にすすり泣かされる。まるで人生の縮図です。そんな作品だからこそ私たちは「自分の物語だ」と強く感じるのだと思います。本当は、1作目の絶妙なポイントで笑えるシーンについて語り合いたかったのですが、前段が思いのほか長くなってしまいました。また別な機会があれば!

関口裕子 プロフィール

「キネマ旬報」、エンタテインメント業界紙VARIETYの日本版「バラエティ・ジャパン」編集長を経て、フリーランスに。執筆、編集、コンサルタントとして活動中。趣味は、歴史散歩。

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