読書日記

『歴史学者という病』 読書日記366 

2024年05月02日 ナビトモブログ記事
テーマ:読書日記


本郷和人『歴史学者という病』講談社現代新書(図書館)

図書館に加納朋子を借りに行った時にふとみつけた本。著者の書く本を私は基本的には信頼しているが、どういう訳か歴史の学会内では著者は嫌われているらしい。

歴史というものは3通りに分類できると私は考えている。一つは読み物・読み本としての歴史で、一般的には歴史好きと思っている人が好むものだ。英雄史であったり興亡史であったり読み物としての面白さを持つ。二つ目は学問としての歴史、学者が研究する対象としての歴史であり、一般的な読者にとっては微に入り細に入る叙述は詰まらない。そして、三つ目は教科書としての歴史であり、教科書になる歴史と言ってもよい。一般的には暗記物として捉えられ詰まらないものと思われている。けれどもこの教科書というものは教える側の味付けによって面白くも詰まらなくもなるものだと私は思っている。

さて、amazonによる「はじめに」の抜粋を長いけれども写す。
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歴史学は奥も闇も深い

●「物語の歴史」と「科学の歴史」の大きな違い
●時代が変われば歴史も変わる怖さ
●実証と単純実証は断じて違う
●皇国史観VS.実証主義の死闘
●教育者の一流≠研究者の一流
●修業時代とブラック寺院
●私は認められたかった
●「博士号」の激しすぎるインフレ
●「古代+京都」至上主義の嫌な感じ
●「生徒が考える」歴史教科書はNGだった
●歴史学衰退の主犯は大学受験
●私を批判する若い研究者たちへ
●唯物史観を超えるヒント
●網野史学にも検証が必要だ
●民衆からユートピアは生まれるか
●「日本史のIT化」は学問なのか
●次なる目標はヒストリカル・コミュニケーター

本書のテーマは「歴史学者」、つまり歴史を研究するということの意味について考えること――だ。(中略)聞きようによっては、同僚や他の研究者の批判に聞こえてしまうようなところもあるかもしれないが、もちろん個人攻撃や人格攻撃などの意図はまったくない。あくまで学問的な批判だと考えていただければよい。ここまで心中を正直に吐露したのは本書が初めてであろう。

幼年時代の私は、偉人伝などをはじめとする「物語」としての歴史にハマった。だが、本格的な歴史研究者を志すために大学に入ると、そこには「物語」などではない、「科学」という、まったく新しい様相の歴史が待ち構えていた。
学生時代の私は、史料をひたすら読み込む「実証」という帰納的な歴史に魅了された。その一方で、いくつかの史実をつなげて仮説を組み立てようとする演繹的な歴史のもつ面白さにハマった時期もあった。だが、実証を好む人々からは「仮説」というものは徹底して異端視され、しばしば私も批判されることになった。
さらに学びを深めるうちに、歴史学、歴史というものは決して悠久でも万古不易でもなく、それどころか、むしろその時代のもつ雰囲気や世論、世界の流れなどによって、簡単に姿を変えてしまう、ある意味恐ろしいものなのだという現実も知った。また、受験科目としての安直きわまりない「歴史」が、数多くの歴史嫌いを大量生産し、結果的に歴史という学問の著しい衰退を招いてしまっている事実にも言及したい。
こうした機微な話は歴史の授業や歴史学の講義ではなかなか話題にならない。(「はじめに」を一部改稿)
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私の高校〜大学時代、歴史学の主流は唯物史観であった様に思われる。皇国史観に染められた戦前の歴史観に対する反動もあったであろうが、教科書はともかく一般的な新書や素人向けの全集ではとにかく人民による革命へと導くような記述、あるいは民衆は搾取され権力者は抑圧するものという決まり切った見解が散見されたように思う。著者は唯物史観を乗り越えるためにはどうすれば良いかと思索する。今現在の歴史学がどの様な潮流にあるのかは知らないが、少なくとも(現在時点から見直せば)かなり偏見に満ちた史観であったと思う。

ただし、この本における著者の心意気や壮、とは思うものの、やや不満もある。皇朝十二銭のことを大きく取り上げるのは皇国史観のしっぽであると言うものの、著者の記述には富本銭のこと(当然著者は知っていると思われる)は出ていない。今の日本史教科書では皇朝十二銭の前に富本銭があったということが記述されており、それに続くものとして皇朝十二銭が出ている。ちなみに日本銀行金融研究所内の貨幣博物館には確か富本銭が展示されていたと思う。

と言うか、日本の歴史学者は(私には)世界史に疎い様に思える。少なくとも高校の日本史教科書(幕末以降)と世界史教科書(帝国主義以降)は記述対象は重なっている(それぞれ教科書の1/3ほどの量)。まあ同じ事態を指していても、「満州某重大事件」と「張作霖爆殺事件」というように呼び名が異なることはあるけれど・・。言わば、量的に大きく重なっていることは世界史の中で考えれば現代日本の位置はかなり大きいことを示していることを示しているのだが、日本史教科書の方がやや閉鎖的に感じるのは私だけなのだろうか。
(2024年4月9日読了)



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