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母の事 

2022年03月29日 外部ブログ記事
テーマ:テーマ無し

なぜか母のことが思い出される日です。







母は十八歳で父のところに見合い結婚で嫁いできました。 高等女学校を卒業して間もない頃です。
十八と言うのは当時の数え年ですから、満17歳と思われます。




母は自分と子どもたちの着物、襦袢、肌襦袢、腰紐、帯など全て縫ってくれました。
和服はほどいて、洗い張りも庭で。手伝いが好きだったので、その行程もよく覚えています。


腰紐を作る時は竹の長い物差しを利用して、裏返しする時に必ず私のちょっとした手伝いが必要でした。長い筒状の袋をひっくり返すのですから、片方を誰かが持つか、くけ台に引っ掛けるか。小学校低学年の時のことです。


母が私のために用意してくれた絹の腰紐二本は今も大事にとっています。
そして帯枕も。






母の手垢もついている筈で洗わずにいます。私が、六十年以上前に使ってた腰紐です。
じっと見て触っていると、涙が出そうになります。






手前五本が自分で買ったもの。モスリン。

向こう二本が絹で母から。
扇子も帯枕も母から。








現在わたしが使う腰紐はモスリンです。これは、呉服屋さんで買った品です。最近使っていないので、腰紐を洗いアイロンを当てました。昔ならコテが活躍するところ。


腰紐は和服着付けの命です。自分は五本用意しています。











伊達締めもヨレヨレですが未だ現役です。
二十歳の頃から六十年以上使っています。

元々素材が良いので、古くなり使い良く新しくする気はない。












昔の女性は、若くして、時代として当然とは言え、和服の全ての知識を会得していた事に尊敬です。


腰紐にさえも母の好みでしょう、ぼかし模様の娘にふさわしい色を選んでくれています。母は足袋にもこだわりがあり、四枚こはぜでなく五枚こはぜを履いていました。店の名前を忘れましたが、足袋も特別の店から取り寄せていました。足袋は手縫いで上手い仕立ては指が綺麗でした。今は機械仕立てですから差はない筈です。
















腰紐を四つに畳んで並べてみると、偶然でしょうが、なんと長さが今も昔も一緒なので感動でした。
と言うことは母が和服を日常的に着てた頃と今の和服の着付けとはあまり変化がないと言うことでしょう。約2メートルとちょっとです。尺で言うと?




最近、和服を着なくなっていて少し寂しい。和のお稽古事も遠のいているので。
できるだけ機を見て着るようにしたいと思い始めています。母の大島紬なども着たい。


数えの六歳六月六日に日本舞踊を姉に次いで始めたので、和服は小さい時からお正月だけでなく、普段にも着る機会が多かった。それが今になっても体が覚えているのでしょうか。和服は抵抗ない。ただ長襦袢の襟付けが満足にできない。


最近、呉服屋さんも染め物屋さんも、少なくなった割には、和服姿の方を近辺で多く見かけるのは、この辺りに今日庵があるからでしょうか。








。。。。。






思えば過去三年は着なかった。着物がタンスの肥やしになっていました。


洋装のアクセサリーなど持っていないのですが、着物の小物は自分にしては結構あるかしら。帯締めや帯揚げは着物や帯の色や柄そして季節に合わせるためには必要な小物です。







母は、明治の終わりに生まれた人ですから、普段は着物に割烹着姿。戦時中はモンペ姿。もんぺは、綿絣や銘仙でした。着物をほどいての、勿論、母の自作。ワタシも綿の絣モンペを履き防空頭巾姿で幼稚園に通っていたのです。


母は学校の参観日には必ず和服だった。私立の女子中学校では家庭科、国語、数学、社会の女性教師はみんな和服でした。黒板の前に立つ教師の和服姿は記憶に焼きついています。


思えば、自分が生きてるうちに目に見える景色が驚異の激変です。
ふと懐かしく思い出すのです。

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